堺市の東西線LRT、着工目前までいっていたのが、2009年の市長選挙の結果、中止となった。関係者のショックは大きかった。国内で上げ潮ムードとなっていた交通モード「LRT」に冷や水を浴びせ評価を一気に悪化させてしまった。

堺と河内や大和を結ぶ東西鉄軌道計画は100年以上前から

堺は南北方向の鉄軌道は非常に充実しているが、東西方向は、100年以上前から度々計画されたものの短距離ですでに廃止された阪堺線大浜支線を除き実現せず、現在は全くない。

東西鉄軌道は長年にわたる堺市の課題であり市民の夢である。堺市民には東西鉄軌道願望の遺伝子が刷り込まれていると言っていい。

都市力の栄枯衰勢や社会状況により、東西鉄軌道計画は現れては消えを繰り返したものの、具体化までには駒は進まなかった。価値観の変化と行政リーダーの発想の転換により、都市間連絡機能を捨て、市街地活性化機能に注目して機種を次世代路面電車LRTとして着工直前までたどり着いたが、またもや実現はかなわなかった。この「堺ショック」から10年以上が経過したこの機会に、これまでの歴史・経緯を振り返っておきたい。

 

免許をとったのは南大阪電気鉄道という実績のない会社

1920(大正9)年に南大阪電気鉄道という会社が堺と大和高田間の鉄道敷設免許を獲得した。

この地図は南大阪電気鉄道が最初に出願した際の、鉄道省が審査時作成した資料の一つである。実線が南大阪電気鉄道出願線である(点線は大阪鉄道が対抗して出願した計画線。)実は、南大阪電気鉄道は、最初南大阪電気軌道と称し、明治期の阪神や阪急・京阪のビジネスモデルと同じように都心部から路面の併用軌道で発着するという計画だった。起点は市之町西5丁すなわち南海鉄道堺駅前から、大小路を併用軌道で進み、環濠の外に出てからは新設軌道で奈良に向かうようになっていた。

しかし大正の半ばになると都市間電鉄で都心部を併用軌道とする線形は監督官庁から避けるよう指導があったようで、起点を、辛うじて堺市内となる市之町東6丁(事実上は環濠の外側の中筋村)に変更して、軌道法適用から鉄道法適用に、社名も南大阪電気鉄道として正式出願、免許された。

当初の軌道特許出願時代の線形はまさに後年の東西LRTとほぼ同一で、時代は違えども需要見込など考えは同じと強く感じる。

鉄道敷設免許は踊る

この免許線を巡って、戦前・戦後を通じこの南大阪電気鉄道の免許を承継した大鉄・近鉄と堺に絶対的権益を持つ南海という大手鉄道会社のいわゆるナワバリ争い、そして経済界や行政も絡み合うという手に汗握るともいえる展開があった。

1950年代後半に堺臨海工業地帯の造成が始まり、八幡製鉄進出決定の時は、堺都市圏の将来が保証されたと、多いに沸き立った。折からの堺市制70年の祝賀ムードとあいまち、東西鉄道の建設も動き出すやに見えた。新聞でも大きく取り上げられたものの、結局なにも起こらなかった。

 

行政主導に舵切り替え

鉄道建設の主役が鉄道事業者から「公」となった社会情勢の変革の流れの中で、堺市は、長年の懸案である東西鉄軌道の具体化のため行政計画に落とし込み、市が主導的に推進しようとした。

 

しかし、政治、行政、市民のそれぞれの思いや考えに相当のズレがあった。最も重要であるはずの市民の合意形成は、丁寧かつ根気強い努力がなされなかったようだ。予算も確保し、いざ着工という寸前で無残にも崩れ去った。「選挙の結果で」ということになっているが、市の重要プロジェクトを実施する市当局の仕事ぶりに市民が信頼を置けなかったことが、選挙で突崩された要因となったことは想像に難くない。

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堺市東西交通年表
優に100年を越える間、議論が続く堺の東西鉄軌道のこれまでの経緯を年表にまとめています。
堺市東西鉄軌道 年表.pdf
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